『ナーサリーホテルとホンダ』
1959年、ホンダにとっての初のGP、マン島TTレース参戦の際に貸し切られたオンカンのナーサリーホテルの名は以前から興味が有りました。近年ショッピングモールなど大型施設でトイレや洗面所のほか授乳室としてNursery(ナーサリー)の表示を良く見かけていました。その意味から想像しても世界に羽ばたく前のよちよちのホンダを育むような優しいホテルの名前の印象です。
もう8年も付き合っているリバプールのCB92マニア、レイ・デービスから紹介して貰ったオンカン在住のやはりCB92マニア、ジョン・ダルトンが以前彼の地のビンテージジャパニーズモーターサイクルクラブ(VJMC)の会報に非常に興味深い文章を寄稿していました。あまり知られていない歴史的背景も含む面白い文章で一人で楽しんでいるのは好ましくなく是非当オーナーズクラブのメンバー諸兄にも読んでいただきたいと思い打診しましたところダルトンから快諾の返答が来ました。直訳に近く読みづらい箇所も多いと思いますがご笑覧ください。


1959年 ナーサリーホテルとホンダ             ジョン・ダルトン

 

マン島、オンカンのナーサリーホテルは1800年代初頭に建設されスピットル家に所有されてきました。それは庭師の棟梁であるピーター・ポリンドのための家屋でした。ホテルになる前、家屋周辺の土地は養樹園(ガーデン ナーサリー)として利用されていました。それが後年ホテル名としてのナーサリーの所以です。
スピットル家から家屋と土地はキャッスル・タウン醸造に転売されホテルに改修され長らくフォレスター氏によって運営されました。第二次大戦中は代わってホワイトヘッド家によって運営されていました。1959年ホンダが初めてマン島TTに参戦したときホテルの支配人はウェッブ氏で1964年から1970年の間ホテルはグリフィン夫妻と娘のヴィッキー、息子のカールトンによって運営されました。グリフィン夫妻は元スーパーチェーン・マークス&スペンサーのマン島代理店の経営者でした。
キャッスル・タウン醸造がヘロン&ブレディー(H&B)に買収された後もナーサリーはホテル兼パブとして運営が続けられましたがH&Bの所有下では支配人はめまぐるしく交代しました。1988年ホテルは閉鎖され同時にホテル前にアーキバルド・ノックス(後にマンクス・アーティスト)というパブが建設されました。

ナーサリーホテルは1959年ホンダ・チームに彼らのTT初参戦のため貸切られます。
彼らによってクリプス・コースの研究に使用する目的でベンリィ・スーパースポーツが四台持ち込まれます。それはこのモデルの初の海外披露となりそして多大な評判を呼ぶことになるのです。
当時のモーターサイクルジャーナリスト、デイブ・ディクソンとジョン・グリフィスは幸運にもこのバイクの試乗機会を与えられ、両名は時の二輪誌にこの車両の鮮烈な試乗記を記したのです。

興味深いことにジョン・グリフィスの子息であるスティーブ・グリフィスは今日’59年から’64年までの5年間だけ製造されたホンダ・ベンリィ・スーパースポーツの希少な部品を見出すことに長けた二輪商です。スティーブは私の所有する複数のベンリィの部品探しに貢献した大変頼もしい仲間です。

‘59
TTの練習車の残存は一台も確認されていません。当時それらのバイクはTT期間中連絡車としても活用されていました。(次頁)二枚の写真はジェフ・ベイン(元レーサー)によって’59年にダグラス・プロムナードで撮影されたものです。
ジェフは親切にもこれまで印刷物になったことのないオリジナル写真を当方にくれたのです。写真中には同車の左側の画像がありVJMCニュースレター第十八巻一号のすばらしい記載中にジョン・バートンが述べているエアスクープがあります。スクープはTT練習車にのみ見られる特徴でエンジン後面の冷却を補助するものです。これらの車両にはアルミ製の燃料タンク、合金リム、前フェンダー、ツールボックス及びバッテリーカバーが用いられていました。ハブとブレーキパネルにはマグネシウム合金がおごられていました。1961年にタンクは通常のスチール製に変わり後年他の部品も順次変わっていきますが1964年の最終型までレーサーラインは維持されます。

1995
年私はナーサリーホテルから僅か半マイルのところに住みマン島最大のガラス会社マンクス・グラス&グレイジング社で働きました。そのときの職場の同僚にロイ・ムーアが居ました。彼は9月のマンクス・グランプリ時のマンクスラジオ放送でおなじみの有名人です。ロイが言いますのに彼は少年時代TTレーサーのサインを集めており1959TTに参加した日本からのライダーのものも一冊の本にして持っていました。彼はそれをTTミュージアムに寄贈したい意向があり、嬉しいかなそのコピーを私にくれました。オリジナルサインは今日コレクターズアイテムでありホンダのTT史の一つといえましょう。

1959年に話を戻します。ナーサリーホテルにはそこに至る二つの通路がありました。長い方の通路は使用されたことが無く門で塞がれておりました。ある朝早く一台のレース車が始動されました。ナーサリーホテルと道を隔てたところに住んでいた二人の少年はこの音を間近に聴きました。謎めいた新型バイクの音を確認しに行き彼らはそのバイクがウォーミングアップの後かなりのスピードで走り出すのを見ました。その速度で閉鎖されていた門のところまで来たライダーはブレーキを踏みましたが使われていなかった通路上は落葉と苔のカーペット状態であったため転倒してしまいました。これがマン島におけるホンダの最初のクラッシュでありその事故を目撃した二人の少年とは他ならぬロイ・ムーアとジェフ・キャネルだったのです。後者はもちろんボイスオブTTで有名でありハウスオブキーのメンバーであるMr.キャネルその人です。

1992年のTTウィークに私は閉鎖され板戸が打ち付けられていたナーサリーホテルの敷地にVJMCのメンバーを集め当日うち三名のメンバーのベンリィ・スーパースポーツを並べ昔日のスナップになぞらえて写真を撮りました。バイクの所有者は夫々ジョン・ケニス(マン島)、アーサー・パターソン(米国)とアラン・パターソン(北ウェールズ)です。

当日ナースリーホテル前に参集したVJMCのメンバーは少なかったのですがホテルを背景にしてそこでベンリィ・スーパースポーツのスナップショットを撮ることを是非したかったのです。1992年々末にショップライト・チェーン(マン島)にホテルと敷地が買収され、ホテルはフェンスで囲われます。1993年にホテルは取り壊され更地はアスファルトで舗装されてしまいます。1999年ショップライトはホテルの跡地に新店舗の建築確認を取ります。

ホンダがマン島政府からホテルを購入し彼らによって旅行者の為のホンダのTTレースにおける第一歩を記念する博物館にするような先見性を持たなかったことは残念なことです。
(そのような動きが少しでもありましたか・・・、ご存知の方はいますか?)
とまれナーサリーホテルは1959年に新ホンダレーサーが現出しその全てのスタートを切った場所であることは間違いの無い事実です。

ここに偶然を喜ぶ人々と、興味深いその背景として。・・・・

1950年代後半のクリプス・コースのナーサリーベンドの土手に三人の年若い観客が座っているこれまで公表されたことの無い写真があります。

彼らは(左から)ロイ・ムーア、ジェフ・キャネルそしてジョン・モリニュです。ジョンは後にレーシングサイドカーのパセンジャーとなり残念ながら1970年のアルスターGPのレース中にドライバーのジョージ・オーツとともにその生涯を閉じます。

ジョン・モリニュの子息デビッドは現在(1999年現在)のサイドカーTTのラップレコードホルダーであり、1993年の初優勝を初めその戦歴は彼の父の少年時代の仲間であるロイ・ムーアとジェフ・キャネルによって常にレポートされているのです。

驚くことに本稿の著者であるジョン・ダルトンがレースをした最初のレーシングサイドカーはジョン・モリニュとE・リースが製作したものでしたしデビッド・モリニュが後に17歳のとき入手した最初のレーシングサイドカーはジョン・ダルトンから購入したものでした。





2010.07.04 K
次回は『ホーン』


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